7月16日の日記

2007年7月16日
「『もういないものは想わないで、今あるものを想いなさい』と、昔俺に誰かが言ったのです。
 多分それは俺の母だったのでしょうか。物心ついた頃に母を見たのは、一度きりでした。
 白い病室。白い肌。ただ唇だけが紅を注した様に赤くありました。果敢ない、美しい人だと思いました。俺はそれ以来、美しい人に会った事はありません。
 母は俺が見ている前で死にました。今の俺と同じ病気だと聴きました。最期に母は俺にそう言ったのでした。
 祖父は俺の母を悪く言いました。罵詈雑言の限りを尽くし、俺の悪様にそうを言いました。俺は黒い服を着ていました。それは母の葬式の場でした。
 俺はそう言った祖父を指差してただ一言『あなたは死ぬべきだ』と言いました。そう思ったから言ったのです。
 俺の、死んでしまった母よりもその男に俺はこの場から消えて欲しいと願ったからです。
 何故棺に入っているのが美しい女の人で、このみすぼらしい老人が入っていないのだろうと思いました。
 それが本当は母ではなかったとしても、俺にとって大切な人でした。俺の前で初めて死んだ人でした。俺のために初めて泣いた人でした。
 ほろりほろりと涙を零しながら、俺は祖父に言いました。業突張りの、耄碌した老人に向かって。
 『貴方にはわかりません。俺の大切な人が死にました。俺を愛してくれた人は死にました。俺は一人だけになってしまいました。
  金なんて、どうでもいい。家柄なんてどうでもいい。そんな事も知らないわからない貴方に、この人を悪く言う事は、許しません』。
 それから俺は祖父に疎まれるようになりましたが、別に俺は如何でもよかった。嫌われるのには、慣れていましたから。
 俺が発病した時、喜んで縁切りしました。その際の手切れ金で俺は暮らしているのです。多分大豪邸が二,三軒建てられる位はあるでしょう。
 金なんか要りません。ただ俺を無償で愛してくれる存在が欲しいそれだけだったのです。おれの願いはそれだけでした。
 母を想うことはしません。生きていてくれたらとも思いません。こんな人がいたと語るだけです。もう俺は母を想い、泣いたりしません。
 俺は一人ではなくなりましたから、その必要はもうないのです」

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